テレビゲームあれこれ日記

ゲームにおける“やり込み”という要素

 最近のゲームでは、あって当たり前、むしろ、ないほうが珍しいくらいの「やり込み」という要素。一言で言えば、「おまけ」あるいは「作り手からのサービス」という感じでしょうか。
 当初この言葉は、ある一つのゲームをひたすら「極めよう」として、時にはクリエイターの想定の範囲を超えてまで「そのゲームをとことん遊び尽くす!」という、ユーザーの“遊び方”――今風に言うなら“プレイスタイル”(今風なのか?)を表すものでした。
 今日においても、その基本的な意味合いは変わっていません。
 が、いつの頃からか、そうしたヘビーゲーマーの「やり込み」自体を想定した作品が続々と登場するようになりました。やれ「全てのカードを集められるかな?」とか、「全てのキャラクターを仲間に出来るかな?」とか、「全てのセリフを読めるかな?」とか、ゲームのジャンルによっても様々ですが、突き詰めれば「全ての画面を見られるかな?」ということになるかも知れません。
 冒頭で述べたように、これは「おまけ」的な性格が強いため、やりたくない人は、そこまで無理をしなくても、そのゲームをクリアすることは充分に可能です。
 ただ、やる気にさえなれば、一本のゲームでそれだけ長く遊べるわけですから、これはユーザーとしても歓迎すべき状況なのは確かです。

 しかし、任天堂がかつて家庭用ゲーム機「ニンテンドウ64」の販売不振に喘いでいた時、誰であったか忘れましたが(確か“マリオ”の生みの親・宮本茂氏だったと思うのですが)、同社のある人物が雑誌のインタビューで、「ゲーム機の性能向上とともに、ソフト一本にかかる予算も制作期間も増すことになる。今までと同じペースでゲームが消費されていたら、弾切れになってしまう。そこで、一本のソフトでなるべく長く遊んでもらえるように工夫したい。例えばレースゲームなら、後から新しいコースだけを廉価で販売したり……」というような趣旨の発言をしていました。
 僕はその記事を読んで、何とも複雑な気分になりましたね。まあ、当時「ニンテンドウ64」のソフト不足は深刻でしたから、その特例を安易に今のゲームの状況に当てはめて考えるべきではありませんが、現在の「やり込み」系ゲームの洪水に目を向けると、ついついその時に読んだ記事のことを思い出し、「どうせ、どこまで行っても作り手の想定した範囲内なんだろう?」というふうに、何だか気分が冷めてしまうのです。「さあ、やり込んで下さい!」という魂胆が見え見えのゲームは、その時点で白けてしまいますね。僕は「ドラクエモンスターズ」シリーズは好きなのですが、三作目の「キャラバンハート」は、終盤で思いっきり白けました、はい。
[PR]

by atom211974-3 | 2005-11-26 14:45
<< かっこいいゲームのタイトル(題... 最近、携帯ゲームばっかり遊んで... >>